待ち合わせ場所に到着し、ガイドさんから説明を受けました。
戦艦ミズーリ記念館は米軍施設のフォード・アイランドの中にあるので一般の通行が禁止されています。
軍事施設を通過するので絶対に車から降りないで下さい。
冗談でも車外にカメラを向けないで下さい。
ドキドキしました。
約5分でミズーリ戦艦入り口に到着しました。
戦艦ミズーリ艦内見学 は、60分くらいとのこと。
駐車場からテクテクと歩きます。
入ります。
太平洋戦争でアメリカ海軍太平洋艦隊司令長官であったチェスター・ニミッツ提督の像が出迎えます。
ニミッツは東郷のことを非常に尊敬していたそうで、若き海軍士官だったころから、個人的に東郷と懇意になりました。終戦後、横須賀で朽ち果てていた日露戦争当時の旗艦、戦艦三笠を修復するための募金集めに多大な貢献をしたり、東郷を祀る「東郷神社」(東京・原宿)が空襲で焼け落ちていることを知ると、その復興のために寄付したりしています。
ジャンボジェット機4機分の長さ(207.4m)と20階建てビルの高さ(64m)を誇る戦艦ミズーリ。
この降伏調印式の行われた戦艦ミズーリは、世界で最後に建造され、最後まで現役で使用された戦艦です。
太平洋戦争後1950年~1953年の朝鮮戦争でも活躍し、1955年に一度退役しますが、解体されることなく保存されていました。
その後再び近代化装備を施され、1986年に服役し、1991年には湾岸戦争に出動し、翌1992年に二度目の退役をしました。
1999年より、パール・ハーバーに記念館として一般公開されています。
第2次世界大戦の終了時に日本の降伏文書調印式が行われたデッキに実際立ち、歴史の舞台を自分の目で見ることができるのです。
入ります~。
日本の降伏(ポツダム宣言受諾)がアメリカに伝えられた時(1945年8月14日)、通りに集まっていたニューヨークの軍人と従軍看護婦は大喜びし、大騒ぎになりました。
男の軍人は手当たり次第に周囲の看護婦にキスをしまくったと言います。
それが新聞に掲載されたとか。
この像はその様子を形にしたもの。
この2人は知らない人同士でキスをしたそうです。でも他人。
日本の敗戦の日の出来事だし、気持ちは複雑。
そう、嬉しかったの。そうですか~。
戦艦ミズーリ号
・総排水トン:48,500トン
・速度:34ノット(時速63キロ)世界最速です。
・剰員:1851名
・全長:270m
・全幅:32,98m これはパナマ運河の幅を想定しての事らしいです。
・戦歴:硫黄島作戦・沖縄作戦・日本本土攻撃・朝鮮戦争
・1955年に一度退役
・1985年 トマホークミサイルを装備し、湾岸戦争に参加
戦艦ミズーリは、世界最後の戦艦なんです。
こちらはミズーリ号の主砲、前部第一砲塔(下)、第二砲塔(上)です。主砲の砲塔は全部で3基あります。主砲は口径40.6センチ、射程約37㎞で、大和・武蔵には及びませんが、アメリカ海軍では最大級でした。
主砲を下から見た様子。
この主砲1門でスペースシャトル1機と同じくらいの重量があるらしいです。
主砲の砲弾です。
前部甲板です。
艦首の部分です。重さ15000キロの巨大なアンカーは、ミズーリの艦体を支えるおもりの役割をしています。
先端にあるアンテナは、1986年、近代設備を搭載した際に設置されたものです。
先端部のアンテナのニックネームは「クリスマスツリー」。
湾岸戦争の際に発射したミサイルの数が記録されていました。
降伏調印式の行われた場所です。
最初は艦長室の前の狭いスペースが選ばれたのですが、このスペースは普段は兵の立ち入ることのできない、特別な場所だそうです。
艦にとって大事な場所で式を行うことにしたようです。
マッカーサーが署名している様子。
式典の場所で整列する日本代表団です。
前列右 梅津美治郎(うめづよしじろう) 全権(大本営=軍部代表)、前列左 重光葵(しげみつまもる) 全権(日本政府代表)。
またアメリカ側から軍服は禁じられていましたが正装であるということで、軍服での参加にしたみたいです。
悔しかっただろうなぁ。すごく悔しかったと思う。
日本の代表団を威圧するために、調印会場の第2甲板のデッキには180cm以上の兵士を並べたそうです。
日本側の重光葵代表の足が義足であることを予測して、ハッチから乗船して調印場所までの歩む時間を何度も計らせて調印のスケジュールのシミュレーションを行いました。
そして8:56に日本代表団を船に着けさせたのに予定よりも2分遅れて9時2分に式が開始され、10分間のマッカーサーの演説を含め、9:26に調印式は無事終了したらしいです。
マッカーサー自身によるスピーチです。
「全地球上民衆の大部分を代表するわれわれは、相互不信、悪意或いは憎悪の精神をもってここに集まったのでもなく、むしろ戦勝国もまた敗戦国もともに、われわれが関与せんとしている神聖なる目的に添い得るただ一つのより高き威厳に向かって立ち到ることこそ、われわれの意図するところである」
マッカーサーは、式が始まるまで極度の緊張で何度も嘔吐してたらしいです。
独特の緊張感があったんですね。
床にはめこまれた記念プレートです。
調印の行われた机があった場所の床には、それを示すサインが埋め込まれています。
U.S.S. MISSOURI
OVER THIS SPOT, ON 2 SEPTEMBER 1945, THE INSTRUMENT OF FORMAL SURRENDER OF JAPAN TO THE ALLIED POWERS WAS SIGNED. THUS BRINGING TO A CLOSE THE SECOND WORLD WAR.
THE SHIP AT THAT TIME WAS AT ANCHOR IN TOKYO BAY.
アメリカ戦艦ミズーリ
1945年9月2日、この場所の上で、日本の連合軍に対する正式な降伏文書に署名がなされました。そして第二次世界大戦は終結しました。本戦艦は当時東京湾に錨を下ろしていました。
感慨深いです。
レプリカの降伏文書が展示されています。
調印式において日本側は天皇・日本政府の命によりかつその名において重光葵外相が、また大本営の命により、かつその名において梅津美治郎参謀総長が署名しました。
連合国側は連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー のほか、合衆国代表、中華民国代表、イギリス代表、ソ連代表、オーストラリア代表、カナダ代表、フランス代表、オランダ代表、ニュージーランド代表が署名をました。
ここで、間違いが起きました。
カナダ代表コスグレーブ大佐が署名する際、 自国の署名欄ではなく一段飛ばしたフランス代表団の欄に署名してしまったんです。
とても緊張していたのではないかということです。
そして次の代表であるフランスのルクレール大将はこれに気づかずオランダ代表の欄に署名、 続くオランダのヘルフリッヒ大将は間違いに気付いたがマッカーサーの指示に従い渋々ニュージーランド代表の欄に署名しました。
最後の署名となるニュージーランドのイシット少将もアメリカ側の指示に従って欄外に署名する事になり、結果的にカナダ代表の欄が空欄となりました。
星条旗が飾られていますが、実は、この星条旗にある星は31個しかありません。アメリカ国旗の星は州の数を表しており、現在は50個の星があります。
江戸時代鎖国だった日本に開国をせまったペリーが黒船に乗ってやってきた時代の星条旗をわざわざ取り寄せたのだそうです。
また、降伏文書調印式は、東京湾で行われました。
調印式が行われるミズーリ号を100年前のペリー提督の旗艦ポーハタン号が停泊した場所に停泊させました。そうしてアメリカ軍は日本に「2度目の開国」を意識させたのだと言います。
マッカーサーは6本の万年筆を準備して交代で文章に調印しました。
重光葵大臣は降伏文書にアメリカのペンは使いたくないと秘書官のペンを借用して持ち込んだそうです。
悔しかったんだろうなぁ。
今の日本を見て、どう思うのかな。平和にはなったけど。
百田さんの作品『永遠の0』で、主人公の宮部のモデルになった特攻隊の方が、戦艦ミズーリにつけた傷がある場所です。
ミズーリの右舷艦尾には「カミカゼ・アタック・サイト」(特攻機の攻撃場所)という凹み傷が残ってる場所があります
艦の側面ですが、少しへこんでいます。
1945年4月11日14時43分に、特攻機が突入したときに当たって曲がった甲板の手摺です。
この小さな凹みと若い命が引き換えになりました。
カミカゼアタック
石野節雄氏海軍特攻隊5建武隊所属。(同時に突入した『第五建武隊』の石井謙吉二等飛行兵曹(享年22)操縦の可能性もあるが、編隊での位置から判断して石野二飛兵の可能性が高いとのこと。)
1945年4月11日にミズーリに特攻して損傷をあたえています。
彼にも、もちろん家族がいました。
この特攻機は鹿児島県の鹿屋(大隅半島)を飛び立った「第五建武隊」(計16機)のうちの1機でした
石野節雄 二等飛行兵曹は、岡山県出身の19歳でした。
練習生として訓練を終えたばかりで、戦争さえなければ夢も希望もいっぱいのキラキラした若者だったと思います。
レーダーを逃れるために海面スレスレに飛行し、このミズーリに辿り着きました。
すごい飛行技術です。
この特攻機は既に魚雷を発射した後だったのか、艦は表面にちょっとした傷を受けただけでした。
この衝撃によって特攻隊員の身体は二分され、頭部と上半身はミズーリ艦上に残されました。甲板に投げ出された敵兵の上半身を海に投げ落とそうとしたミズーリの隊員達。
当時ミズーリ号の艦長ウィリアム・キャラハンはその行為を阻止しました。
兄を日本軍との戦闘で失っていた艦長です。
けれど、戦火の中ミズーリまで辿り着いたこの特攻隊員の技術・精神・勇気に心打たれて、この特攻隊員を水葬にして手厚く葬ることを提案したんです。
圧倒的な攻撃を見事にかわしての特攻でミズリー船長のW・キャラハンはこの勇敢な攻撃に心をうたれ星条旗上から日の丸を書かせて遺体を包み礼砲をもって水葬したそうです。艦内では「自分たちを殺そうとした敵兵にそんなことをする必要はない!!」という反対が多くあったそうです。確かに、そうですよね。
彼らも、日本軍によって多くの仲間の命も失われたりしているはずです。
そこでW・キャラハン艦長は言いました。
「この日本のパイロットも、諸君と同じく国家の為に命を投げ出して戦ったのだ。敵兵でも死んだら敵ではない。国家に命を捧げた勇士であり、海軍式に水葬にすべきである」と自身の意志を周知徹底させたという。
日本国旗なんて手元になかった米軍は徹夜で旭日軍艦旗を作り遺体を包んで、礼砲五発、全員敬礼をし特攻隊員は手厚く海に葬られたそうです。
その時の足跡です。
中に入ります。
トマホークの発射台です。
トマホークは1発1億円くらい。
発射機の側面に4つマークがあります。
これは湾岸戦争の時、この発射機から4発のトマホークミサイルが発射されたという印です。4億円??
「トマホーク」とは、ネイティブアメリカン(アメリカ先住民)の斧のことであり、このマークはそのトマホークを模しています。
戦争が起こると、アメリカが好景気になるのって、こうゆうことですかね。
トマホーク巡航ミサイルの4連装ボックスランチャー。合計8基搭載。
ここは、頑丈に作られているみたいです。
重要な場所の1つです。
戦闘時はブリッジに被弾しても司令や艦長以下幹部が負傷したり戦死しないよう、装甲の分厚い(440mmほどある)指令塔に入り指揮していたらしいです。