前回に、『エクシブ京都 八瀬離宮』から比叡山延暦寺の横川への交通ルートに関する記事を書きました!
「世の中に 山てふ山は多かれど 山とは比叡の御山をぞいふ」
この歌は鎌倉初期に活躍した延暦寺の僧侶、慈円(じえん)が読んだもので、「数ある山の中でも比叡山こそが日本一である」ということを意味しています。
比叡山は京都府と滋賀県の県境で南北に連なり、その山内には日本仏教の母山ともいわれる天台宗の総本山、「比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)」があります。
788年に伝教大師 最澄(でんぎょうだいし さいちょう)が開いたこのお寺は1200年の歴史を誇り、1994年(平成6年)にはユネスコ世界文化遺産にも登録され、世界的にも評価されています。
比叡山延暦寺にまだ行ったことがない方は、「比叡山という山に延暦寺という大きな一棟のお寺が存在している」と想像されるかもしれませんが、延暦寺は東側の東塔(とうどう)、西側の西塔(さいとう)、北側の横川(よかわ)と呼ばれる3つのエリアに点在しており、その全域を総称して延暦寺と呼ばれています。
長年にわたり少しずつ拡大を続け、天台宗の総本山として現在のような巨大な姿に至りました。
とても広い敷地のため、全エリアをじっくり参拝するには丸一日あっても足りないほどです。
最澄は滋賀県の坂本にある生源寺(しょうげんじ)付近で、奈良時代末期の766年に誕生したと言われています。
近江国の「国分寺」というお寺で行表(ぎょうひょう)の弟子になり、14歳で「得度(とくど)」という出家の儀式を行いました。
法名の「最澄」は読んで字のごとく、「最も澄むもの」を意味しています。
行表がある時言った、「心を一乗に帰すべし(生きとし生けるものは皆必ず仏になることができる)」という教えが、最澄の一生に大いなる影響を与えたと言われています。
平安時代初期の延暦7年(788年)、比叡山での修行に入った最澄は「一乗止観院(いちじょうしかんいん)」という名の草庵(小さな小屋のようなもの)を建てます。「いまの世の中をもっと良くしていきたい」という思いを込め、一乗止観院の中に、最澄自らが彫った薬師如来を祀りました。
それが後に国宝となる「根本中堂(こんぽんちゅうどう)」です。
このように、現在の立派な比叡山延暦寺は人里離れた小さな小屋から始まったのです。
「明(あき)らけく 後(のち)の仏の御世(みよ)までも 光つたえよ 法(のり)のともしび」
「この仏法のともしびを多くの人によって受け継ぎ、守り続けていかなければいけない」
「この世の中をよくしていくためには、努力し続けることが大切である」
そんな思いを込めて、菜種油で一つの明かりを灯し、この歌を詠みました。消さないように努力しないと消えてしまうこの明かりは、「不滅の法灯」として延暦寺における覚悟の象徴となっているそうです。
延暦寺は1571年に、織田信長の「比叡山焼き討ち」によって全焼してしまいます。その際にこの灯りも一度消えてしまったと思われたのですが、幸い山形県の立石寺に分灯されていたため、最澄が灯した日から一度も消えることなく、今も守られ続けています。
現在の建物は信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって再建されました。
「天台座主(てんだいざす)」と呼ばれる比叡山延暦寺の住職は、現在の住職で第257代目となります。
最澄が亡くなった後に初代住職となった「義真(ぎしん)」から始まり、これまで一度も途絶えたことがありません。
そんな歴代天台座主の中には、以下のように各宗派の開祖たちが数多くいます。
- 法然(ほうねん)→ 浄土宗
- 親鸞(しんらん)→ 浄土真宗、法然の弟子
- 良忍(りょうにん)→ 融通念仏宗
- 真盛(しんせい)→ 天台宗真盛派
- 栄西(えいさい)→ 臨済宗、建仁寺の開山
- 道元(どうげん)→ 曹洞宗、永平寺の開山
- 日蓮(にちれん)→ 日蓮宗
比叡山延暦寺で天台宗の元修行をしたのちに、開祖として各宗派を全国に広めていきました。「一人前の僧侶を養成したい」という最澄の想いが、多くの人々に伝わり日本の仏教を動かしていったのです。
横川バス停で降りて、横川中堂を目指します。
横川のおすすめの散策ルート
その前に、腹ごしらえです。バス停を降りて、すぐに屋台がありました。
田楽 200円を購入。
田楽 200円
みたらし団子 200円
西塔 釈迦堂、横川中堂は、16時に閉堂です。
第3世天台座主、円仁(えんにん)が開いた横川エリア。
【参拝料】
東塔・西塔・横川共通券(延暦寺諸堂巡拝料)700円、国宝殿(宝物館)500円
延暦寺諸堂巡拝料 700円を購入。
比叡山に入山するには巡拝料が必要です。
1エリアだけの拝観券はなく、共通券となります。
3エリア(東塔・西塔・横川)それぞれの入り口に巡拝受付所があって、そこで支払います。
どこから入っても値段は一緒です。
購入すれば、次のエリアに移動しても受付で見せるだけで行き来することができます。
歩きます。
歴史の説明がキチンと書かれています。
龍が池弁天と龍神
横川エリアの入り口を進んでいくと、初めに見えるのがこの池。昔、この池に住みついていた大蛇を元三大師が封じ込めて弁天さまをお迎えし、龍神として弁天さまの遣いにさせたという言い伝えがあります。それからというもの、龍神さまは横川の地を訪れる人々の道中を守り、心願成就を叶えてくださっているそうです。
横川中堂は、首楞厳院(しゅりゅうごんいん)と呼ばれ、横川の中心となる建物。嘉祥元年(848)横川をひらかれた慈覚大師(円仁)が創建しました。昭和17年夏、雷火で全焼、幸いに本尊の聖観音(重文)は炎火を逃れ、昭和46年に復元されました。形式はあくまで復元ですが、鉄筋鉄骨コンクリート建て、銅板葺き屋根の建物は当時の面影を残し、昭和の殿堂として、その威容を山中に現しています。
横川中堂(よかわちゅうどう)
横川エリアの中心となる建物。第3代天台座主 円仁(えんにん)が、聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)をご本尊として建立しました。船が浮かんでいるように見える、舞台づくりが特徴のお堂です。
元三大師堂(がんざんだいしどう)
元三大師が祀られているお堂です。
元三大師の本来のおくり名は「慈恵大師(じえだいし)」ですが、正月三日に亡くなったことから、「元三大師(がんざんだいし)」と呼ばれ、親しまれています。
生前から人並み外れた霊力を持っていたそうで、数々の伝説が語り継がれています。厄除け大師、角大師と呼ばれるようになった理由もそのうちの一つで、元三大師が大きな鏡の前で禅定に入っていたところ、骨の鬼の姿が鏡に映り、それを弟子たちが素早く写し取ったのが始まりなんだそうです。
私たちが当たり前のように引いているおみくじも、元三大師が考案したものです。
東塔エリアのおみくじ場所には「おみくじの心得」が細かく書かれていて勉強になります。
歩いて、歩いて
このような道を歩いて
横川のバス乗り場へ戻ります。